Pray

以前民藝は私にとって祈りのようなものだという記事を書きました。

私はある特定の宗教を信じているわけではないのですが、祈り というものに興味があります。

祈り、というか 祈る という行為。

そのきっかけは学生時代に訪れたサン・ピエトロ大聖堂の巡礼者だけが入れる部屋でみた人々の祈る姿。

そして チュニジアやトルコのモスクで祈る人々の姿。

バリ島の家にある祭壇に捧げられた色とりどりの花。

もちろん日本のお寺や神社でも。仏壇や神棚にも。いや、何か物体に対してだけでなく何処かへと誰かへと祈ることがある。

世界中どこへいってもある 日常の中の祈り。

数年前のイタリアに行った際の日記にこんな一文がありました。
「神がいるかいないか、わたしにはわからないけれど、人々の祈りの中に何かはいるし、ある。それだけは確かだ。その祈りは本物だ。」

記憶が追いつかないほど昔から手を合わせて祈るという行為は、私にとっても日常の中にありました。

自分のことを、誰かのことを、祈る。

自分ではどうしようもないことを、祈る。

果たして祈ったところで何か変わるかどうかなんていうのはわからないけれど、祈る。

続く災害に目を覆いたくなる、耳を塞ぎたくなるニュース。

自分は被害を受けていないだけに、立ち竦んでしまう。
ある日突然に日常を奪われるということは、本当にあり得るのだという7年前を思い出した秋のはじまりの夜。隣では娘が寝息を立て、お腹の子はぐにぐにと動いていました。

なんだか落ち着かなくて、夜中にふとみたインスタグラムで、近くのギャラリー、うつわノートさんで彫刻家スギサキマサノリさんの展示が行われることを知りました。

店主の松本さんも仰っていたけれど、なんの因果かテーマは【ここにある祈り】。

朝から車を走らせて伺った久しぶりのうつわノート。

趣のあるドアを開けると、小さな石像がそこかしこに。深く頭を垂れて祈る人、だるまさんのように座って祈る人。足を折り祈る人。

動物の石像もあれば抽象的な石も、木彫りも。でもどれも凛としつつやさしい。

うつわノートの空間と調和して、なんとも穏やかな光景でした。

その中でもふと目にした母子像。

祈っている姿でもないけれど、見た瞬間 うわぁ…と心の中で声をあげました。

今までアートを買ったこともなく、ましてや石像なんて。

本当はもっと小さい祈りの像があればいいかな…と思っていたのです。

けれども、そのやわらかい色をして、ほんとうに愛おしそうに子を腕に抱く母の像は、わたしの心を優しく揺さぶるのでした。

わたしがその像に見たのは、普遍的な愛でした。

表情があるわけでもない、削られた石のカタマリ。

けれども目が離せないもの。

どんな人も、この世に生まれたからには、この像の子のように誰かによって生み出され、抱き上げられたのだということ。

わたしは全く完璧な母親なんかではないし、人として完全でもない。

けれども、子どもが生まれた時のあのこんこんと湧き出る泉のような愛は本物であるということも知っています。

きっと産んだ後は産む前とは決定的に違う何かを得て、

自分の中の何かが消えてしまう哀しみもある。

そんな【おかあさん】の業とよろこび。

宇多田ヒカルの【あなた】の歌詞にあるような、切実な祈り。

じっくりじっくり向き合って、自然光の下でも見させてもらい、

迎えることにしました。

家の窓辺に置いて、ぼんやり眺めたり、朝と晩そうっと手を合わせます。

いろんな感謝や祈り、願い。

途方もない、祈り。

縄文時代の土偶にも、みんなこうして祈ったのかな。

ミャオ族の気の遠くなるような刺繍も、お母さんが祈りながら一針ずつ縫われたのだろうな。

そう考えると、なんだかアートと民藝の境ってなんなんだろ。と思ったり。

そんなことを思いながら、淡く発光するような像を見ながら考える朝なのでした。

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