民藝徒然。

ここ数日、ふと民藝から離れたいなと思って、民藝という文字をみるのも少し辛かった。

お腹も大きくなり、好きなところにひょいひょい行けなくなって苦しくなったのもあるのかもしれない。

民藝って向き合うには「自分」を見るようで、そのためのエネルギーが妊娠で完全にガス欠しているというか。

もっとも、私は民藝のただのひとりの使い手であり、それが仕事でもなんでもないので、向き合えなくてもなにも支障はない。

思えば前の妊娠、出産の時もそうだったなぁと。もう、この世界には戻ってこられないかもしれないと漠然と思ったのだった。

その数ヶ月後には乳飲み子連れて民藝館に行ったりしているわけですが。この、出産によって自分の一部が死んでしまうんじゃないかという不安は毎回付随するんだな〜としみじみしています。(友人は、出産とは一言で言えば自我の崩壊と言い表していた。まさに。)

離れれば飢えて戻る、民藝とは私にとってそんな場所です。

楽しい、嬉しい!はもちろん地盤にあって、だけれどもどこか切実に求めているトコロもあり、自分でもなんで好きなのかいまいち説明し尽くせない。

でも、言葉にできなくてもいいのかなと今思っていたりして。

言葉にすればするほど、本質から離れる気もする。

今は考えるべき時じゃないんだなーと感じたり。

この根っこは変わらないけれど。

去年書いた投稿。

改めて、わたしにとって民藝とは。

ただ、生まれて来る子のために職人さんが特注で作ってくださったゆりかごを出したとき、

子が大きくなってからも使えるようにと手間がかかるのに手をつけて、あけびの不作の年にわざわざ太い蔓を選んでこつこつ貯めて、しっかりと編まれた網目をみて

ああ、民藝って【愛】だよなぁ。と感じたのでした。

H.P.Eの谷さんも仰っていたけれど、元々は売るためでなく、自分のため、家族のために作られたもの。昔は当たり前に行われていたこと。ミャオ族の背当てや、古布に見る 誰かのために ではなく、確実に存在する個人のために 作られたものに、私は愛情を感じる。その流れを汲んでいる民藝に、惹かれる。

あ、書いていたらだんだんわかってきたぞ。

私はアートやプロダクトと並列で民藝を考えることはそんなになくて、だってそれの境界はかなり曖昧であるから。

民藝的なもの というものは、どの分野にもある。多分。デパートでも見つけられるのかもしれない。まだ見つけられていないけれど。

その中でも自然の中のものを、(プラスチックだってもとは生物の死骸なのだからどこまでを自然の中のものというのかはわからないけれど)なるべくそのまま外に置いておいても朽ちていくものを私は愛したいと思う。

多分これは、死んだら超高温で燃やされて、埋められて、なんのほかの生き物の栄養にすらなれない、今の自分が持つ憧れのようなものなのかもしれない。そして雑木林の中にいるような、土や草のにおいがすること、それも大事。

そして、民藝のものを持った時に、ほっとする感覚が、なによりも私を惹きつけてやまないのは、狙って作られたものではないからなのかもしれない。

私の好きな職人さんは、「民藝」を意識して、民藝品を作ってやろうと思って作っている人は少ない。民藝かどうかというのは、後から誰かが評価したものだ、という感じで、自分はただ良いもの、使い良いものを作りたいと思っているひとたち。

そういう人とのつながりも、どうしてか好きなのだ。

民藝はめんどくさい。手間もかかるし、手に入れるまでも調べるし時間はかかるし、お金もかかるし、手入れもいる。そもそも規格なんて無いに等しく、食洗機なんて使えないし、電子レンジもだめかもしれない。カゴなんて使わなければカビが生える。思い入れがある分、割れてしまったら悲しくなるし、失くしたら電車に乗っても取りに戻るし、簡単には捨てられない。

今の大きな大きな矢印からしたらもう、とっても小さな小さな反逆である。

だから、向き合うにはそれなりのエネルギーがいるのだけれど。

でもその対価を払っても、いいよね。と思えるから選ぶ。使う。作る。直す。

ちょっと今はその力は無いので、また産後のお楽しみだけれど。民藝との縁は細くなったり太くなったりしながら、長く続いていけばいいなと思う。きっとまたいつかそう遠く無い未来に再会できるでしょう。

そして願わくば、子どもたちもいいなと思ってくれて、民藝が続いていきますように。

そんな徒然。お盆の終わり。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA