もうすぐ臨月。

妊娠34週、もうすぐ臨月になります。
第二子はあっという間と言いますが、本当にあっという間。娘を追いかけているうちにあれよあれよという間に34週。。すまぬお腹の子。。

娘の時はのんびり昼寝をし、好きなものを好きなだけ食べるという極楽生活だったのですが、今はそんなことはなく。やっとここ数週間お腹の子と向き合えている気がします。といっても日中は娘中心なわけで、てんやわんや。

それでもお腹は娘の時よりかなり大きくなり、流石に娘を抱っこしたまま階段を上り下りすると息切れ。胎動が激しくて夜、目がさめるほど元気な我が子です。

二度目でもやはり妊娠というものは不思議で、どんどん変わっていく自分の体や心の変化についていけず、でも立ち止まっているわけにもいかず。子育てを経験したからこその不安や大丈夫なんだろうかという気持ちも湧いて、なにやら安定しない。そんな数週間でもありました。結局は案ずるより生むが易しで、どうにでもなるということも経験から分かっているのですが、無事産めるんだろうかとか、心配してしまうのが母親なのかもしれません。(娘の時は全く心配よりもただただ何も考えずに楽しみ〜くらいで今振り返ればなんというお気楽という感じです!)

とはいっても、とても楽しみなのがお腹の子が男の子だということ。息子か〜どんな子かな、ママと結婚するとかいって欲しい…とか今から思ってはニヤニヤしています。

ちなみに体調はおかげさまですこぶるよく、くるくる回っていたお腹の子も、やっと安定したらしく一安心。ただ夏バテで全然私の体重が増えない(お腹の子は順調に増えている)ので、コツコツ食べるか…と思っているくらいです。

先日上野の東京国立博物館で開催されている縄文展を見てきたのですが、まぁ、私と同じ土偶さんがいっぱい。正中線まで描かれていたり、子供が生まれるところもリアル…縄文人にとっても妊娠出産って奇跡のようなものだったんだなぁ。自分たちだけではどうしようもないところだったんだろうなと妙に親近感が湧いたのでした。

その中でも目を引いたのが、小さな手形と足型のついた土製の板。

子供の成長の記録なのか、それとも形見なのか、先に死んでしまった親への副葬品なのかいろんな説があるようですが、その生まれたての赤子くらいの大きさの手形に、なんともいえない胸が詰まるような気持ちになりました。

だって、あまりにも小さい。

帰りの電車で、ぼーっとその手形と足形を思い出しながら実感したのは、妊娠してから死を近くに感じるようになったということでした。

出産という生む行為が、昔は死と隣り合わせであったこと、縄文時代ならなおさらでしょう。それが私の中のどこかの記憶に深く深く刻まれているような気がするのです。

そして自分の意思とは異なる命が自分の胎内にいるのだという感覚の不思議さ。

1回目の出産の時、生まれた娘を見て「自分よりも長く生きるであろう子を産んでしまった」という妙な気持ちを抱いたことも思い出しました。また退院してから始めて娘と眠る深夜、このどうしようもなく弱いものの命が自分に委ねられているという重み。気を抜いたら死んでしまうのではないかという不安。

自分ではどうしようもできない存在とでもいうのか、今まで二心同体であったものが、本当に心も体も別々の生き物であったのだという感慨と、生き物を生み出すという動物的な営みがなにやら引っかかったのでした。(そしてそれはすぐに育児と子の可愛さに押し流されしばらく忘れることとなる)

先日IHAでの展示の時に、スタッフさんと話していたとき、私より年下の彼は いまいち死というものを実感できないと 言っていて、そういえば私も出産する前は自分はずっと生きているんじゃ無いかくらいに思っていたなと。

自分より長く生きるであろうお腹の子の存在で、自分の死を感じるなんてなんだか変な感じだなと思いつつ、限りあるものへの愛おしさということがより身近に迫る今日この頃。

いつか必ず来るもの。けど、まだそれは今ではないであろうもの。そういうものを本当はみんな抱えて生きているけれど、高度化した社会では見にくいのかな、なんて考えるのです。

そんなことを考えながらゆるゆる過ごす34週目最後の夜なのでした。

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